松下幸之助はなぜ掃除を勧めたのか(2)物事の真髄を極める

渡邊祐介 (PHP研究所 松下理念研究部長)

《『PHP Business Review松下幸之助塾』2012年3・4月号より》

 

 掃除は普遍性のある修業

 冒頭に述べた(記事:松下幸之助はなぜ掃除を勧めたのか(1)掃除と仕事は同じ 参照)ように、松下幸之助は人材育成に掃除の効用を認め実践を訴えた。ただ、問題は掃除を実践する人が、掃除が修養に繋がるとみずから信じて行うかどうかである。

 松下政経塾においても、塾生たちの間には掃除に対する疑問があったという。松下が奉公した時代と現代とはあまりに違う。塾生たちにとって掃除は学校教育における最低限の義務だったにすぎず、それ以上の意義を感じるものではなかったからだ。まして、松下の並み並みならぬ掃除へのこだわりに、疑問を口にする者も出始めた。

 それに対して松下は折にふれ、さまざまな表現をもって納得させようとした。

 掃除ひとつできないような人間だったら、何もできない。皆さんは、“そんなことはもう、三つ子の時分から知っている”と思うかもしれないが、ほんとうは掃除を完全にするということは、一大事業です。 ――1980年6月2日

(『松下幸之助発言集44』PHP研究所、1993年)

 このように、掃除というものを安易に捉えることを戒めている。また、ある塾生が政経塾の塾是「真に国家と国民を愛し、新しい人間観にもとづく政治・経営の理念を探求し、人類の繁栄幸福と世界の平和に貢献しよう」について、言葉としては分かるけれども、自分にとって塾是がどういう意味をもってくるのかがよく分からない、と述べたとき、松下は難行苦行することの必要性を説いたあと、次のように語っている。

 親鸞でもお釈迦さんでも、一所懸命に悟りをひらきたい、世の中の真理というものを知りたいと念願して、3年も4年も苦行をしたわけです。きみはそんなに念願もせず、ぽっとここへ入ってきたのでしょう。悟れるわけがない。だから、掃除をやりなさい、掃除を完全にできないようではあかんということで、掃除をやっているのです。  ――1980年7月19日

(『松下幸之助発言集44』PHP研究所、1993年)

  つまり、身体を使う難行苦行として掃除はその手段だというのである。あるいは多くの言葉を費やし、掃除は商売や政治の真髄を極める道に通じるとしてその意義を述べている。少し長いが以下のようである。

 どんな仕事でも、単純な仕事でも、真心をこめてやらないと具合が悪い。そこからいろいろなものが生まれてくるわけや。掃除の仕方でも、やっているうちに、こういう掃除の仕方があるということがわかってくる。植木のあいだを掃除していても、こういうふうにしたほうがもっと早くきれいになる、木のためにもなると気づく。そんなことまで考えるような人は、しまいには植木の職人になるかもわからん。そうすると、植木屋になっても非常にいい仕事ができる。君が植木屋になるわけやないけれども、どんなにつまらんと思う仕事でも、やる以上は精神をこめてやらなければいけない。
 ところがはたして、全員が朝の掃除を30分間、誠心誠意やっているかどうかという問題やな。形式的にやっているだけだったら、それはもう、何も身につかんわけや。植木のあいだを掃除している。葉が落ちている。その落ち方を見て、この植木は傷んでいるからもっと水をかけてやらなければいけないというようなこともわかってくる。掃除をしていながら、植木を育てることもできるわけや。すべてにおいてそうなれば、商売をしていても、こういう商売の仕方は具合が悪い。将来の日本のためにならない。将来の日本のためになるには、商売の仕方を変えないといけない。そのためには、この法律は必要ない、この法律があったらかえってじゃまになるから、この法律を変えなければいけない。するとさらに、そのためには政治はこうあらねばならない、ということまで発想していくことになる。
 だから、掃除をしている過程において、偉大な政治の要諦がつかめるわけや。こうしてやればいいという程度やったら単なる掃除で終わってしまう。そういうことやな。掃除に出てくる人もあるし、出てこない人もあるということを聞いたから、そんなことでは具合悪いなと思った。掃除をするということの意義を知らない。なぜ政経塾で掃除というものをさせるかというと、掃除から政治はいかにあるべきかということまで発想できるからや。それで掃除も大事やというふうに考えている。諸君は他の何についてもそういう見方をしないと、非常に浅くなってくる。深いものを汲み取ることができないわけや。だから、掃除をしていても、政治の真髄をつかめる人と、単なる掃除で終わってしまう人と、10年のあいだに格段の差ができるわけや。  ――1980年10月24日

(『リーダーになる人に知っておいてほしいこと』PHP研究所、2009年)

 

 

意義を高めるのは自分次第

 “なぜ、この思いが伝わらないのだろう”。松下幸之助はこうした思いをしばしば抱いたのかもしれない。 

 しかし辛抱強く、掃除も凡事だと思わず、全身全霊の努力をしていれば、さまざまな気づきが得られる、物事の真理を理解することにも繋がっていくと説く。もしそういう気づきに辿り着ければ、掃除は仕事のコツの域にとどまらず政治の要諦にも通じるというのである。

 時に禅問答のようにも感じられる松下の言葉を、はたして塾生たちはどこまで理解できたであろうか。ただ松下は真に切実な思いで訴えていたことであろう。

 これほど真剣に、かつ熱心に掃除を推奨したのは、松下の自然・宇宙観によるところも大きいと思われる。松下は、万物を創造し、存在せしめるものとして宇宙の根源を想定し、その力のもとにすべてが生成発展していくと考えていた。宇宙根源の力は、自然の理法としてわれわれ人間の体内にも脈々と働き、一木一草のなかまで生き生きとみちあふれている。したがって、季節の移ろいも自然の理法によるところであり、何ごとも自然の理にかなった方法によれば、必ずうまくいくという哲学である。

 松下は、松下幸之助商学院において掃除を導入するにあたって、「1年間同じ時間、同じ場所で掃除をしても夏には夕立が降り、冬には枯葉が落ちるといった自然現象の違いを掃除を通じて感じるもの」と語っていた。掃除を実践するなかでそれぞれが作業のコツをつかむ工夫をこらす努力をしていれば、おのずと自然の理法に即した物事の道理を模索し、理解することに繋がり、より人間力を磨く修業となっていくのではないか。

 辛抱を養える、仕事の段取りが鍛えられる、コツをつかめる、政治の要諦が見えてくる等々、松下の説くさまざまな掃除の効用をみてきたが、詰まるところ、そこにはそうした松下なりの哲学の探求が根底にあったのである。そこにまで思いをはせれば、まさに、行う者の心がけ次第で、掃除は実用レベルをはるかに超えて、哲学するという意味でも人間の修業となるわけである。

 掃除をたんに掃除として実践していれば、美しくなったというだけである。しかし、本当の意味で松下が求めていたのは、掃除を徹底してきわめていくなかで、自然の理法が万物に及んでいることを体感してもらいたいということだったのではないだろうか。

 

 

 

以下、塾長より

 

 

掃除をすると、よく運気があがるとか

言われます。

 

また、掃除をすることで自分のこころもきれいになるとか

よく耳にします。

 

根拠はないのだけれど

 

そうかもな、と合点がいくところが

なんとも

不思議です。